今日(10/22)は洛東中学校に用事があり出かけた。
センターと中学校は目と鼻の先と言ってもいいかもしれない。
東大路通に面しているセンターの裏門から西へ向かう
細い道を行くと、洛東中学校と六波羅蜜寺のある辻に出る。
今までまったく気が付かなかったが、正門を入ってすぐ左側に
石碑が建っていて、それに刻まれた文字は
平氏六波羅第
此附近六波羅探題府 と読める。
やはり、この辺りは平家の邸宅のど真ん中ではないか。
住宅地図を開いて見るとよくわかった。
位置関係で言うと、細い二本の道が交差している辻の
西北角に六波羅蜜寺(写真のお寺は、今日のよく晴れた青空の上空に
かかった雲のために、空の青が浮世絵のぼかしのようになって
写った六波羅蜜寺です)、南東角に洛東中学校があって
洛東中学の敷地の大部分は多門町だが、
その西側の北半分は三盛(みつもり)町で、南半分は門脇町に属している。
つまり、洛東中学校の正門からすぐ、石碑の建っているところは
門脇町で、その門脇町の西側は池殿町に続いている。
ちなみに、六波羅蜜寺は三盛町にある。
もう少し詳しく調べて見ると、
池殿町の名の由来は、平頼盛邸の通称「池殿」から、
門脇町の名は、平教盛が住んでいた邸宅が
六波羅惣門の角にあったので門脇宰相と呼ばれたことから、
三盛町の名は、この地に屋敷を構えていた平氏一門のうち、
清盛(平忠盛の長男)、教盛(四男)、清盛の異母弟の頼盛(五男)
の三兄弟からついた、ということだそうだ。
ちなみに、頼盛の母親である池ノ禅尼は、平治の乱に敗れて
捕らわれた頼朝の助命に熱心だった人。
地理的な六波羅の位置はというと、北は建仁寺より南は五条通りまで、
西は鴨川より東は東大路に至る東西700メートル、南北350メートルの地域を言うとのこと。
栄華を極めた平家が滅んだ後は、
この地に鎌倉幕府の六波羅探題が置かれた。(N)
2007年10月23日
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